ケイン・ヴェラスケスがオクタゴンに足を踏み入れるべく試合が組まれ、契約も済ませた時、オクタゴンの中の出来事とは関係のないところで、しばしば問題が発生してしまう傾向にある。 ”ブラウン・プライド(褐色人種の誇り)”として知られる男は、UFCの歴史に不死身の存在として名を残すこととなろう。ヘビー級タイトルを2度も獲得したという確かな実績があれば、そのことは間違いない。しかし、度重なる負傷が彼の業績の輝きを損なわせる汚点になってしまっている。 メキシコ出身のヴェラスケスに対する懐疑論のきっかけは、はっきりしている。アリゾナ州立大学時代のNCAA(全米大学体育協会)ディビジョン1に始まるキャリアに発端があるのだ。大学レスリングが突きつける負担の大きさは選手の身体に何らかの形でダメージを強いる。
2008年4月にUFCに入ってから、ヴェラスケスは13戦で11勝している。うち、実に9勝がノックアウト勝利、判定勝ちはわずか2勝というからヘビー級では圧倒的な存在だ。 しかし、ヴェラスケスがブロック・レスナー(彼もまた、身体に多くの問題を抱えたNCAAディビジョン1レスラーだ)と戦った後、ケガの頻度が大きく増えたことで、彼のキャリアも変化していく。 アメリカ時間2010年10月24日にヴェラスケスがUFCのタイトルを始めて獲得した時から、前回の試合が行われたアメリカ時間2015年6月13日までの間に、このメキシコ系アメリカ人のヘビー級戦士はわずか6試合しか戦っていない。 ヴェラスケスはレスナー戦で右肩を負傷、手術のため1年以上の欠場を強いられ、長く防衛戦に挑めなかった。 さまざまな慢性的な痛みと戦っていたヴェラスケスはジュニオール・ドス・サントスに64秒でノックアウト負けした際にもケガをしてしまい、結局これが2011年唯一の試合となる。 2012年の後半、ヴェラスケスは2勝を挙げて復活する。1勝はアントニオ・シウバから、もう1勝ではドス・サントスとの再戦で圧倒し、タイトルを奪還したのである。50-45、50-43、50-44の判定結果からも、その圧巻ぶりは明らかだ。 2013年には2試合に臨んだヴェラスケス。いずれも前年の対戦相手との再戦だった。彼はシウバを下し、ドス・サントスとの3連戦も勝利で締めくくった。しかし、その年の12月に彼は再び右肩の手術を受けなければならなくなる。 2014年、ヴェラスケスはTUF(ジ・アルティメット・ファイター)ラテンアメリカのシーズン1でコーチを務めた。ヴェラスケスのブランド力を上昇させ、スター性を発揮する良い機会だ。シーズンフィナーレで、ヴェラスケスはファブリシオ・ヴェウドゥムとタイトルをかけて戦うはずだったのだが、宿命の対決は再びケガによって水泡と帰す。合宿中にヴェラスケスは右ヒザを故障、メキシコシティで開催されたUFC 180にはマーク・ハントが代役で出場した。 ほぼ20カ月にわたる負傷欠場を経て復帰したヴェラスケスはヴェウドゥムとのヘビー級王座統一戦に臨むが、ヴェラスケスの勢いをヴェウドゥムの関節技が食い止め、ヴェウドゥムが統一王者に輝く。 UFC 196では再戦が組まれた。しかし、合宿中にずっと痛んでいた腰が問題になった。結局、ヴェラスケスは再びの手術を強いられ、またしてもチャンスは流れる。ヴェラスケスの代役スティペ・ミオシッチはブラジル・クリチバを舞台にしたUFC 198でヴェウドゥムを破り、現在の統一王者となったのだった。
ヴェラスケスにとってUFC 200はケガさえなければ驚異的なスタミナと破壊的なパンチのパワーを持つモンスターであることをファンや会社に再認識させるチャンスになる。トラヴィス・ブラウンは甘い相手ではないが、ヴェラスケスはブラウンを倒すことを決意している。それよりも、むしろ最大の敵であり、自身のベルトを奪還と王座防衛の邪魔をしているのは、コンスタントに戦えないことに尽きるのだ。