QUINTET ULTRA:五味隆典

QUINTET
UFCファイトナイト・シンガポール:五味隆典 vs. ジョン・タック【シンガポール・カラン/2017年6月17日(Photo by Brandon Magnus/Zuffa LLC/Zuffa LLC via Getty Images)】
UFCファイトナイト・シンガポール:五味隆典 vs. ジョン・タック【シンガポール・カラン/2017年6月17日(Photo by Brandon Magnus/Zuffa LLC/Zuffa LLC via Getty Images)】
時間はかかったが、“火の玉ボーイ”に本来の調子が戻ってきている。

天下無双と称される日本人ファイターの五味隆典は、格闘家らしく強打を武器にスポーツの全盛期を生き抜いてきた。修斗、戦極、PRIDEで長く戦い、ヴァーリ・トゥード・ジャパンにも参戦した五味は、日本国内最大のステージに何度も登場している。

UFCがまだ始まったばかりの1998年末、日本のプロモーションである修斗はすでに第57回のイベントを迎えていた。それは世界にMMAの存在が知れ渡る前から、宇野薫、フランク・トリッグ、アレッシャンドリ・フランカ・ノゲイラらを擁していた一流の団体だった。そのプロモーションが隆盛を極めた時期に現れたのが、20歳の五味だった。

無名だったファイターは次々と勝利を重ね、気付けば戦績を9勝0敗として、初の世界タイトルをかけて戦っていた。

佐藤ルミナを相手に、序盤でアームバーとヒールフックにはまりかけたが、最終的には完勝。それまで6回の前例と同様に、3人のジャッジは全員五味を勝者と判定した。ユナニマス判定のキングという称号を得て王座に就いた彼は、修斗の第5代世界ウェルター級(当時)チャンピオンとなった。

それからさらに4戦の成功を収めた後に、五味はとうとう修斗で初の黒星となる判定負けを喫し、タイトルを失うことになる。2003年8月10日のことだった。

判定は2-0であり、頭上の冠が重くなったわけでもないだろうが、そろそろどこか別の場所で力を試す時が来ていた。

五味がMMAデビューする1年と少し前、新たなプロモーションが4万7,000人のファンの歓声を浴びて誕生している。

PRIDE.1が開催されるやいなや、それはたちまち一大ブームを巻き起こす。ヘンゾ・グレイシー、オレッグ・タクタロフ、キモ・レオポルド、ダン・スバーン、ヒクソン・グレイシー、その他豪華メンバーが1997年の東京ドームをにぎわせ、その後もメンバーはさらに強化されていった。

それまでプロモーションを渡り歩いていたファイターたちがPRIDEに専念し始め、次第に世界に知られるようになる。

五味はそこへ真っ先に飛び込んだ。

ユナニマス判定のキングがPRIDEデビュー戦でジャドソン・コスタをノックアウトしたのはビギナーズラックだったのかもしれないが、ファンとファイターたちの記憶にはくっきりと彼の姿が刻まれた。さらに五味は2戦目でハウフ・グレイシーの前に立ち、PRIDE史上最速となるニーでのノックアウトを決めた。時間はわずか6秒だった。

グレイシーの連勝とキャリアを終わらせたその6秒で、“火の玉ボーイ”の名前は一気に広まることになる。五味は次の試合でもフィニッシュを決めた。その次も、そのまた次も。

初めてMMAに熱狂するファンが急速に数を増やす中、五味はエキサイティングな試合には欠かせない存在となる。MMA人気が日本列島をのみ込むのは初めてのことであり、それを盛り上げた立役者はこの1人のライト級ファイターだった。

「日本のMMAの絶頂期でした」と五味は語る。「日本のファンがこのスポーツの良さを知ったのは間違いなくPRIDEのおかげです。PRIDEを知らない人がいたら、家に帰って見るべきですね。あの頃は必死に努力を続ける日々で、新しい何かの始まりでした。ある意味、日本におけるUFCみたいなものです。今では誰もが知っていますが、当時はほんの数パーセントの人にしか認識されていませんでした」

多くの圧倒的勝利を収め、PRIDEにいる誰もがひれ伏すほどの連勝を続けていた五味が桜井“マッハ”速人を倒してライト級タイトルを取ったのは、もはや当然の成り行きだった。

五味は消滅の時までPRIDEと共に歩んだ。日本最大のステージで13勝1敗(1ノーコンテスト)という戦績は、他に誰も近づくことができないほど大きな成功だ。年に5回近くの試合をしていた五味は、自身の成功の犠牲者だったのかもしれない。

彼の名前はヴァンダレイやヒョードル、桜庭に並ぶものではないだろう。彼はPRIDEで“ファイト・オブ・ザ・イヤー”を取ったことはない。彼の支配はあまりにも圧倒的だった。1ラウンドを超えたことは4回しかなく、五味はグラウンドでもスタンドでも15試合を通して対戦相手を支配した。

ところが、UFCに移行してからは“火の玉ボーイ”の勢いが影を潜めた。29勝3敗(1ノーコンテスト)だった戦績は、急激に35勝14敗(1ノーコンテスト)へと落ち込む。何かが足りなかった。彼のグラウンドがあまりにも脅威だったため、ライバルたちはスタンドで戦うことを選び、やがて彼はUFCで打撃の新たな戦術を編み出そうとしたが、うまくはいかなかった。

「今までUFCで戦ったファイターたちはみんな、足を使った動きがめちゃくちゃ速かったですね」と五味は述べた。「グラウンドに持ち込むのは明らかに困難でした。それで、ブロウリングスタイルになったんです。彼らに向かってスイングする方が楽でしたから」

目立った勝利を飾ることなく10敗を喫した五味はUFCを去った。その後、舞台を日本に移し、昨年夏にはメルヴィン・ギラード戦でKO勝ちを収めているが、その前の6連敗を忘れることはできない。そのどれもが1ラウンドでのフィニッシュだった。

それまでにどれだけの成功を収め、その後どれだけ大きなステージに立ったとしても、五味にとって最大の成果はPRIDEでの15試合だった。“火の玉ボーイ”が戦うために生まれてきたのは火を見るより明らかだが、41歳になった今、彼が再びPRIDE時代の栄光を取り戻せるとは考えにくい。

「あの頃を振り返れば、スポーツへの情熱がもっと大きかったですね」と五味は述べた。「スタイル、システム、何もかもが自分にぴったりでした。全てがうまくいくような感じで、PRIDEで戦っていた頃は星が自然と並んでいきました」

12月12日(木)は五味がかつての調子を取り戻す最後のチャンスとなる。ノックアウトを恐れる必要がないほどのスピードとスキルを持っていた彼なら、QUINTET ULTRAでもう一度PRIDEを見せつけることができるはずだ。桜庭和志とタッグを組み、五味はPRIDEで最後に戦った2007年以来、最大のイベントでそのスタイルを発揮しようとしている。

「今はグラップリングスキルがまだ納得できるレベルではないので、自分に恥ずかしくないように、もっとトレーニングしないといけません。今回参加できることをすごく光栄に思っています」と五味は言う。「最近はブロウリングスタイルからレスリングスタイルに戻りつつあって、いい経験になりますし、楽しみです。また、グラウンドを好きになりたいですね。興味深いチャレンジです」

これはPRIDE最後の試合での黒星(後にノーコンテストとなった)だけでなく、キャリア後半の全てに対する彼の雪辱戦だ。

“チームPRIDE”は強力だが、“チームUFC”の若さ、“チームWEC”と“チームStrikeforce”を相手にするには総力を尽くし、また誰かの突出したパフォーマンスが必要になるだろう。

それが“火の玉ボーイ”だったとしても驚かないでほしい。
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