30周年を迎えるUFC

UFC
UFC 269:オクタゴン【アメリカ・ネバダ州ラスベガス/2021年12月11日(Photo by Chris Unger/Zuffa LLC)】
UFC 269:オクタゴン【アメリカ・ネバダ州ラスベガス/2021年12月11日(Photo by Chris Unger/Zuffa LLC)】
1993年11月12日、アート・デイビーとホリオン・グレイシーが革命に着手した。だが、当時は本人たちですら、そのことに気づいていなかった。2人はただ、とあるイベントを開催したかっただけだ。実際のバトルにおいて、どの形態の格闘技が最も有効かという長年の疑問を解決すべく、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップと名付けられたイベントを。

今年、UFCは30周年を迎える。どうやらデイビーとグレイシーには、他の者には見えていなかった何かが見えていたようだ。

デイビーは2018年に「(UFCの初代クリエイティブディレクター)ジョン・ミリアスと私は、これは何なのか、そして、どこへ向かおうとしているのかという点から、これについて話してきた」と振り返っている。

「ジョンは私がパンクラチオンにインスピレーションを受けたことを知っていた。UFCに向けた私の大きなインスピレーションはアジアの組手にあったわけではなく、千年以上も前、最も人気のあるスポーツで、それに匹敵するのは競馬しかないものとして、パンクラチオンと呼ばれるものが存在したという事実にあった。かみついたり、目を突いたりしないという以外に、キック、パンチ、投げ技、固め技、チョーク、グラップリング、ストライキングがあり、ローマ皇帝が禁止するまで1,041年間続いた」

「世界中の若い男女がこれから関心を持つスポーツはサッカーと格闘技だっただろうという事実を踏まえ、私たちはこれがいかに成長するかについてはある意味ショックではなかったという話をしたものだ。私が去って長い時間がたった後にどうなっていると思うかと問われれば、さらに大きくなっているだろう。アルティメット・ファイティングのチャンピオンが誕生し、とある夜のとあるバトルに、世界のどれだけの人が魅了されることか」

-1993年11月にコロラドで戦ったファイターたちでさえ、どうなっていくか分かっていなかった

1993年当時、UFCの初めてのイベントは謎に包まれており、デイビーとグレイシーやミリアス、『Semaphore Entertainment Group(セマフォ・エンターテイメント・グループ/SEG)』のキャンベル・マクラーレンやボブ・メイロウィッツがそれを手がける一方で、世界中の他の誰もが――恐らく11月の夜にコロラドのマクニコルズ・スポーツ・アリーナで戦ったファイターたちでさえ――それからどうなっていくか分かっていなかった。

ビル・ウォーレスやジム・ブラウンと並んでこのときの会場を訪れていた、キックボクシングの偉大なる選手であるキャシー・ロングは、2021年にこう話している。

「私はカンフーサンスー(功夫散手)に馴染みがあって、この格闘技に精通しているなら、指を相手の目に入れ、気管に打撃を加え、膝を踏みつけて、睾丸を握りつぶすものなの。だから、そういう部分では私はまったくのよそ者というわけじゃなかった」

そういったことがUFC 1で実際に行われたわけではない。しかし、かみつきや鼠径部への攻撃、目潰し以外はすべて許容されており、ファイターたちがそれぞれの格闘技によって印象的な戦いを見せた一方、カジュアルなファンに最も強い印象を残したのはケン・シャムロックとホイス・グレイシーだった。一人はレンガの壁をもぶち抜いて歩けるかのような威容であり、もう一人は強い風の一吹きでそれをノックアウトしようという勢いだった。また、多くの人々がUFCはグレイシー柔術の単純な宣伝活動だと考えていたにもかかわらず、ホリオンは8人から成るトーナメントを組む上で、最も脅威的なファミリーの一員――ヒクソン――を選んでいない。

デイビーは「ヒクソンをグレイシーのアスリートにしたかったし、ホリオンは7月までにまだ選定を終わらせていなかった」と振り返っている。

「5月には私が雑誌に出した広告や、ファックスや電話への反応が起こり始めた。ホリオンは言ったんだ。“ヒクソンと俺の政治的な問題は忘れろ。それでもホイスを入れた方がいい”って。私は“なぜだ?”と聞いた。彼は“柔術着を身につけたあいつは小さな侍者のように見える。このイベントであいつが勝てば、ブルース・リーみたいなもんさ。腕の立つ少年が大男を倒すってね”と答えた。彼らはスキルが支配力を持てるかを知りたかった。ケン・ウェイン・シャムロックはキャプテン・アメリカのような男だ。有名選手であり、ハンサムで顎が大きく、筋肉隆々で赤のスピードを履いている。彼が勝てば、われわれが今日話していたか分からない」

26歳のホイス・グレイシーが最初のUFCのファイターに選ばれた。そして、そこにはそれだけのプレッシャーがあった。だが、彼はキャリアを通じてそうであったように、クールで、冷静で、落ち着いていた。

ホイスは「同時に、そこにプレッシャーがあるのも分かっていた。彼らは俺にたっぷりと自信を与えることで、それを取り去っていたよ」と語る。

「グレイシー柔術が人に与えるのがそれだ。自信を与えるんだ。映画にあるような感じさ。とにかくそこへ行って、やるしかない。彼らは俺に”そこに出ちまえば、一人の男がもう一人と対峙してるだけの話だ。ただ、彼とお前しかいない”って言った。そこに謎なんてない。5人と戦うわけじゃない。戦う相手はたった1人だから、恐れる必要なんてない」

ホイスはデンバーで3人と戦い、アート・ジマーソンとシャムロック、ジェラルド・ゴルドーをサブミットして、初めてのUFCトーナメントで優勝。一人のスターが――そして一つのスポーツが――アメリカで誕生した。

ホイスはさらに2つのトーナメントを制し、1995年に行われたシャムロックとのリマッチで引き分けた後、日本に渡っている。UFCはすぐに行動し、シャムロックの元にはアメリカのレスラーであるダン・スバーンやドン・フライ、マーク・コールマン、ロシアの傑出した選手であるオレッグ・タクタロフ、常に観客を沸かせる喧嘩屋のタンク・アボットが加わった。

-「ショーをやるたびに赤字だった。ケーブルから締め出されて、私はどこに行っても出廷していた」

時間が経つにつれて、このスポーツはジャッジの判定や階級、グローブの導入などを通じて進化していく。一方で、当時のマーケティングが政治家たちの怒りを買い、UFCがペイ・パー・ビューから締め出されていく時期もあった。

「ショーをやるたびに赤字だった」とメイロウィッツは言う。「ケーブルから締め出されて、私はどこに行っても出廷していた」

その背景として、このスポーツ――今はノー・ホールズ・バードではなく総合格闘技(MMA)と呼ばれる――は、この競技をコンペティターにとってより安全に、ファンにとってよりエキサイティングに、そして他のコンバットスポーツと同じレベルにあるようにするために、ほぼ終わりのない、せわしない変化を必要としていたという点がある。MMAが鎖を断つのだとすれば、それは内部からくるものでなければならなかった。2000年9月、最大にして長期的な変化がやってきた。権威あるニュージャージー州アスレチック・コントロール・ボードが長く取り組まれてきた統一ルールを承認。2000年11月に実施されたUFC 28がこのルールに基づいて実施された初めてのイベントであり、今日もこのスポーツは同じルールの下で運営されている。

複数の階級、ジャッジングの基準、勝利のための方策、安全なレギュレーションと30を超えるファウルを擁するこのルールは、ファイターの安全性とフェアプレーに焦点を置いた、MMAを運営するためのバイブルだ。

元オリンピアンのコメンテーターであるジェフ・ブラトニックやマッチメーカーのジョー・シルバと共にルールの草案を作成する手助けをしたレフェリーのジョン・マッカーシーは「すべてのショーで何かが起こる。われわれはそれに関するルールを作ったり、これはやるな、あれはやるなと言ったことについて自分で学んだりしていくんだ」とコメントした。

「進歩であり、幸運なことに、時間と共に物事が進化していった」

それが良いニュースだとしたら、悪いニュースはUFCが財政難に陥り、存続の危機に立たされていたことだった。

-デイナ・ホワイト、ロレンゾ・フェルティータ、フランク・フェルティータの参入

ホワイトとフェルティータ兄弟は長年の友人であり、UFCが売りに出されているのを見つけた3人は、新たな企業――『Zuffa(ズッファ)』――を設立して2001年1月にこのプロモーションを買収した。

そこまでは簡単だった。困難だったのは、ダメージを受けたブランドを立て直し、ケーブルテレビでの放送を再開し、50州すべておよび世界のアスレチック・コミッションからの認可を受けることだ。Zuffaはイタリア語で“戦うこと“を意味する言葉であり、長い戦いがこのときに始まったのだ。

ティト・オーティズ、チャック・リデル、ランディ・クートゥア、マット・ヒューズ、B.J.ペンといった新たなスターたちが名勝負を見せる中、異なるスタイル同士の対決といった様相から変化が生じていく。以前よりスキルやコンディションが物を言い、鋼の精神を持つアスリートが勝利を手にするようになったのを受け、ファンは再び集まり始めていた。1次元的なファイターでは勝ち続けることはできず、どういった戦いになろうと自らをコントロールできるファイターが一流になっていく。

2001年9月に実施されたUFC 33までに、このスポーツはまたペイ・パー・ビューでファンの元に届けられるようになり(また、“世界の格闘技の中心”ことラスベガスで認可を受け)、2002年にはオーティズとシャムロックによるスーパーファイトが主要メディアの注目を一気に集める。それでも、2004年の終盤まで財政状況は振るわず、Zuffaはタオルを投げ入れる直前の状況にあった。

UFC会長のホワイトは「ひどかった」と振り返っている。

「われわれは終わりの日を待っていた。勢いは出てきたし、軌道に乗りつつあると感じていたが、われわれがはまり込んだ穴から抜け出せるほどではなかった。トンネルの出口に光は見えていなかった」

ロレンゾ・フェルティータは彼らの会社が経営を続けていくにはあまりに多くの資金を失っていると判断し、ついにある夜、ホワイトに買い手を探すよう連絡した。その翌朝、ロレンゾは考えを変え、パートナーにもう一度やってみたいと伝えたのだ。

-成功が絶対条件の試みと、そこからの成功

「人気急上昇、“ジ・アルティメット・ファイター”」それが、大ブレイクを求めるMMAの新生たちの実生活に迫るリアリティショーについて、ホワイトが語ったことだ。ラスベガスのとある邸宅で共に過ごした後、185パウンドと205パウンドのトーナメントのファイナリストたちが、UFCとの契約をかけて『Spike TV(スパイクTV)』の生放送で激突する。

2005年9月5日、ジ・アルティメット・ファイター(TUF)1でサンチェスがケニー・フロリアンを倒してミドル級の契約を勝ち取った。その後、ライトヘビー級にフォレスト・グリフィンとステファン・ボナーが登場し、15分間のスリリングなバトルの後、2人のファイターとUFCの運命は永久に変わっている。

この試合の勝者であるグリフィンと、ボナーの両名がUFCとの契約を手にした。Spike TVがTUFの新シーズンの契約に応じ、自宅で観戦しているファンがオクタゴンでの総合格闘技を十分に体験できていないと感じる中で、UFCは息を吹き返していく。

ジ・アルティメット・ファイターはプロ総合格闘技の神話や誤解を切り崩すのに役立ち、グリフィンとボナーがそれを完全に解体している。グリフィンは元警察官。ジョージア大学で政治学の学士を取得している。ボナーはスポーツ医学の学位を取得してパデュー大学を卒業した。2人は教育を受け、ウィットに富み、親しみやすい人柄の持ち主だ。彼らはまた、認可を受けた格闘技に参加することを好み、TUF 1の当時は、新進気鋭であるがゆえにマネーに直結するわけではないスポーツに参加していた。ジ・アルティメット・ファイターは勝利への道だった。なぜなら、トーナメント優勝者にはUFCとの6ケタの契約が約束されていたからだ。

2人がオクタゴンのスターになったことで、オクタゴンにはパスポートが必要になった。2007年にイングランドを再訪したのを皮切りに国際的な進出が始まり、ほどなくしてUFCは世界中へと旅することになる。

本国アメリカではボクシングの殿堂入り選手であるマーク・ラトナーがチームに加わり、総合格闘技が全50州で認可を受けるための戦いを率いていった。ラトナーはこの目標を完遂。『Endeavor(エンデバー)』や『ESPN』、『Fox Sports(フォックス・スポーツ)』、『Reebok(リーボック)』、『Venum(ヴェヌム)』などとの契約によって、UFCがローンチから30年を経て世界で最も速い成長を遂げているスポーツであることが明らかになっている。それは、男性ファイターであれ女性ファイターであれ、オクタゴンで優れた選手が競い、格闘技というスポーツがいかに進化したかを示すたびに明らかになっていったことでもあった。

UFCは今や初期のころにありがちだったショーではなく、全範囲の格闘技をカバーできる存在となっている。破壊的なノックアウト、洗練されたサブミッション、消耗戦、テクニカルなバトルのすべてを内包し、全方位を網羅するアクションはファンを最初から最後まで引き込んでいる。元オリンピアンや実績のあるグラップラー、さまざまな格闘技のブラックベルトたちが登場する試合によって、究極を求める場として、時が科した試練にUFCが勝利したのは誰もが認めるところとなった。

だが、これで終わりではない。30年を経て、UFCのストーリーは今始まったばかりなのだ。
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